ここ数日、どうも死んでしまいたい気分でいたのだけれど、こうやって家でゴロゴロしているのと、死んでしまって棺桶でゴロゴロしているのもさして変わらないじゃないかと気がついて、ああこりゃ死にたいってことじゃないんだなと気がついた。
だいたい、死んでしまっても、生きていっても変わらない。
その結論は、僕が他人にどんな影響を与えるかということを抜きにして、自分自身の人生だけに向き合って考えた結果だから、僕が死んだら誰かが悲しむとか喜ぶということは知らない。
そもそも、死んでしまっては周りの人が悲しむかどうかなんて関係ないが。
とはいえ、死んでも生きても変わらないから、ひとまず生きるを続けてみる。
惰性以外で生きるを選択する意味があるのか?と聞かれても、それもとくにない。
仮にこれをすることが僕の人生の意味だということが見つかったとしても、1秒後には変わっているだろうし、逆に一度決めてしまったその人生の意味だけのために生きたとしても、そんなことに意味があるといえるのかは不明だ。
また、人生に意味があるとした場合に、見る人によってその意味が変わるのだから、それこそ自分の人生みたいなものは生きられないのではないだろうか?
そして、それを踏まえて、他人の視点を無視した場合に成り立つ「自分自身が決めた人生の意味」みたいなものは、自己満足が指標になってしまいがちだ。
死の淵で、今までの人生を思い返して「わが生涯に一点の悔いもなし」みたいなことを言えればいいと考える人が多いだろうが、僕はどうもさめていて、悔いがなかったからと言ってなんなんだ?とおもえてしまう。
どうやっても、人生に価値や意味なんてものはない。と言っておかないと、嘘っぱちになってしまって恥ずかしい。
談志師匠がテレビやなんかで「人生に意味なんてない。死ねないから生きているんだ」なんて言っていたのを思い出す。
それに影響を受けてか、色んな人が同じようなことを言っているのを見たが、どこまで腑に落ちてそう言っているのかはわからないと言うか、あきらかにふにおちていないけれど、そう言っておこうみたいな人ばかりのように見えるのは、僕の視点が捻くれているからだろうか。
まあここまで書いた生と死に関する話は、精神世界の話じゃなく、たんなる理屈の話。
理屈的に言うと、
「生きたって、死んだってしょうがねえ」
ってところから始めるのが人生だろう。
前のめりにも、後退りもしないでフラットにやっていこうと思う。
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