高収入で、身長が高くて、優しくて、イケメンで、若い男を狙う女性を笑う人が居る。
高望みするなとか、そんなふうに属性的なところで人を選ぶべきじゃないなんてことを言ったりして。
ただ、その笑われている女性と、自分が男だからと女性と付き合いたいというのは何が違うのか。
同性愛がいけないというのと、異性でなければならないというのは何が違うのか。
僕があみさんを愛する理由はなにか。
もちろん動物的に性的に惹きつけられる部分もある。
でもそれが主なのであれば、僕自身は一人で居たほうがいいんだ。
属性的に好む点もないわけじゃない。
ただ、本当に大切なところで言うと、僕自身が好きな自分と同じような影をあみさんが持っていて、それを愛おしく感じることが大切なんだとおもう。
例えば、あみさんが可愛いものをとらえて愛でる。僕自身もそれを可愛いと思っているが愛でる勇気がない。だから、愛おしく感じるんじゃないか。
相手が一個人でいることを許容するということは、違いを認めるということだ。
違いを認めるためには、自分自身を知っておかなければならない。
自分自身が一個人として立たずに、社会的な属性的な情報でしか成り立っていないのであれば、同じように社会的な属性での違いしか相手に求めることができない。だから、その女性は高収入で、身長が高くて、優しくて、イケメンで、若い男を求める。社会的に良いとされる属性を持ったものを求める。
自分自身を深く詳細に掴んでいくことが、愛の始まりだろう。
自分自身との違いが深く詳細であればあるほど、深く愛せるだそう。
詳細に掴んだ自分が求めたものが、どういった属性の相手だろうと関係がない。
一個人として立つということは、価値観を持つということでもある。
それを持って生きている人に対して、外野がどうこう言うべきではないし、どうこう言ってしまう人に限って一個人として立つほどの価値観を持っていない。
だから、聞く耳など持たなくても良い。
一個人として、一個人を愛していけるかどうかが問題だ。
そんな風に考えながら今日は起きた。
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