誰にも理解されないと思うようなことも、自分自身は否定しないようにする。
そして、理解されなくても良いが、否定しないでほしいと望んだっていい。
最近、そんなふうに思えるようになってきた。
例えば、僕の今までの人生の中で、くじ引きやビンゴなどの抽選で1等賞があたったことが3回ある。景品は商品券だったり、北海道への旅行券だったりしたのだが、そのときって当たる流れみたいなのがあって、実際に当たる前に「ああ、これは僕が当たるやつだな」ってのがわかっていた。
ただ、そんなことを話すと「そんなわけない」とか「勘違いだ」とかなんだとか言われて終わり。
だから、最終的にはそういった自分の感覚的なところについては、誰にも話さなくなったのだけれど、そこまで萎縮する必要はなかったなと最近思うようになって。
仮に、それが受け入れられなかったとしても、そう感じたのは確かだし、それ自体は自分自身で認めてあげること。そして、理解できないからといって、その感覚があったことを否定する権限は誰にもないこと。
そうやって実際に感じたのだから、あったんだ。
多分、否定する人はもう何も悪気はないんだと思う。でも、認めてしまうとその人の世界が崩壊してしまう。だから否定せざるを得なかったんだろう。
でも、ある。僕自身はそのことを否定しない。
幽霊を見たことはないが、予感や察知をしている感覚はよくある。
美味しお店も、行ったほうがいい方向も感覚的にわかる。
感覚的に嫌な場所や人なんかもひと目見ただけでほとんどわかっている。
そんなことを、今まで見ぬふりをしてきたけれど、もっと大切に敏感に生きてみようと思う。
多分そういう方向性でいいんだと思う。僕も。
コメント